アーケードの歴史 竹瓦温泉の歴史 日本のアーケード 保存運動


アーケードの歴史
大正末期の別府港  
. のんびりとした海辺の温泉地だった別府が、たくさんの人々を迎える賑やかな温泉都市になったのは、築港がきっかけでした。
 明治維新 によって、日田県となった別府を訪れた日田県知事 松方正義 が港の必要性を強く感じ、為替会社(別府生産繪所)のメンバーと別府の長老達が集まって明治3年起工、明治4年に立派な港ができあがりました。
 総工費2万8150円という、巨額の費用を県から借り入れ、近代都市としての別府の歴史が始まりました。


大正時代・定期客船むらさき丸  
. 港ができると、豊富な湧出量を誇る「別府温泉」に、日本中から湯治客が訪れるようになりました。
 明治8年には、別府ー大阪間を4隻の汽船が航行。関西や四国からの湯治客で、別府の町は賑わうようになりました。
 明治39年に別府町と浜脇町が合併して 人口1万2308人の別府町が誕生しました。
 別府町浜脇の海岸に自然湧出していた、「竹瓦温泉」も、湯治客が増え、新しい建物が建てられました。


明治時代・大分別府間を走る電車  
.日本人は「伊勢参り」「湯治」冨士講」等、さまざまな理由をつけて旅に出ていました。
 その旅好きな民族の国に、「鉄道」「旅客船」などの近代の交通機関がもたらされた時、人々は喜び勇んで、旅に出かけるようになりました。
 日本で、電車が走り始めたのは、京都(1895年)名古屋(188年)川崎大師(1898年)京浜(1899年)小田原(1900年)別府(1900年)の順番。.
 日本で6番目に走り始めた電車は、大人気だったそうです。


大正時代の海岸通り  
.港ができ、電車が走るようになった別府の町は、急に賑やかな活気溢れる町になりました。
それまで、イリコを干すだけの使い道しかなかった海岸は、電車が走り、観光客を乗せた船が着き、旅館が次々に建てられ、一旗上げようと別府へやってくる人まで、現れたのです。
 


大正・昭和初期の流川通り  
.流川通りは、不夜城と言われ、夜の来ない町と言われた、大正・昭和の頃の別府の町。
 夜中も観光客が浴衣でそぞろ歩く姿を見て、ある人が雨の日も濡れずに歩ける道を作りたいと考えました。
 四国の伊予から別府に移り住んでいた大金持ちの佐々木さんでした。
佐々木さんは、早速その考えを実現しました。それが現在の竹瓦アーケード。
流川通りから、竹瓦温泉までぶち抜きの市場で、しかも、ガラスの天井がついているというものでした。


大正・昭和初期の流川通り  
.アーケードなどという言葉もなかった頃、ネオン輝く流川通りから、竹瓦温泉までの市場は完成しました。
 おもちゃ屋、別府絞りの店、つげ櫛屋、化粧品、竹細工の店。
 しかも、天井はガラス張り。
別府の住人だけでなく、四国・関西からわざわざ見学の人が来るほど、竹瓦小路アーケードは賑わいました。
大正10年12月1日のことでした。


竹瓦小路アーケード  
.やがて、竹瓦小路アーケードは、真ん中に海岸側に抜ける道を作り、その道にも魚屋やおかず屋が並び、夕方には買い物客でごった返すようになりました。
 しかし、この真ん中に新しく作られた道は、普通の住宅が突き当たりにあったため、夜間の用心のために、入り口に木戸をつけ、夜はここに内側から鍵をかけるようにしました。
 現在もこの木戸は、住民の安全を立派に守っています。
 このアーケードがきっかけとなって、別府の町には沢山のアーケードが作られました。
今と違って、車で移動する人の方が珍しかった時代は、雨や風から通行人を守ってくれるアーケードは人々の人気の的でした。
 竹瓦小路アーケードは、作られた時のまま、木造ガラス張りの姿を残しています。
記念すべき、日本一古い木造アーケードを守るために、頑張っていた商店主も時代の流れともに、入れ替わり、日本一可愛くて歴史のあるアーケードの運命は風前の灯となってきました。
 今、このアーケードを守るために立ち上がった人々がいます。
もしも、あなたに、この熱い思いが少しでも伝わったなら、是非、このアーケード保存運動にご参加ください。




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