アーケードの歴史 竹瓦温泉の歴史 日本のアーケード 保存運動


竹瓦温泉の歴史
明治の頃の別府の町  
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. なだらかな傾斜で海に向かって広がった町「別府」は、自然湧出の温泉が太古から豊かに湧き出るところ。
 その町の海岸に漁師が入る温泉ができたのは、いつ頃だったのだろう。
 地面を掘らなくても自然に湧き出す温泉を板で囲い、浴槽を石で作り、雨が降るときのために青竹で屋根を作り、粗末ながらも、地元の人々の疲れを癒す憩いの場として、竹瓦温泉は誕生しました。
 この頃誰が言い出したのか、竹の瓦の温泉だからと「竹瓦温泉」と言う名前で呼ばれるようになりました。


明治35年〜大正  
. いつの頃からか、竹瓦温泉が、リウマチや神経痛によく効くといわれるようになり、近所の漁師や農家の人が泥足のまま、男女の区別もなく入っていた温泉の建物を建て変えることになったのは明治35年のこと。
 小さいが、屋根瓦の乗った立派な建物になりましたが、相変わらず混浴が続きました。
 県の職員が 風紀上好ましくないからと「混浴禁止条例」を出しましたが、混浴になれた地元の人々は、平気で入っていたそうです。
 古き良き時代のお話です。


大正時代  
. 大正2年二階建ての温泉となった「竹瓦温泉」は、神経痛やウマチの患者が詰めかけ、周りには旅館が次々と建てられました。
 入湯客のほとんどが、松葉杖をついた体の不自由な人だったので、温泉に少しでも近い旅館が喜ばれたからです。
 この頃の「竹瓦温泉」は、年中無休・終日開放・無料公開の温泉でした。
 また、室内の天然砂湯もあり、湯治客は、この砂湯の順番を並んで待っていました。
 しかし、夏になると室内の砂湯は暑すぎると海辺の天然砂湯に入る人が多くなり、人気の砂湯も夏は、入る人が少なかったそうです。
 二階は休憩室になっていて、入浴をした人が、二階でちょっと休んでいる風景が一日中見られました。
 別府温泉は、湧出量が豊富なことでも有名ですが、一番の特色は、日本中の泉質がほとんど別府温泉にあつまっていることです。
ないのは、ラジウム温泉だけ。
別府の町中の温泉に入れば、日本中の温泉に入ったのと同じことになるのだそうです。
 この「竹瓦温泉」も実は、男湯と女湯で泉質が違う一味違う温泉なのです。
 女湯は「食塩土類炭酸鉄泉」男湯は食塩重そう泉」。二つの効き目の違う温泉が一つの温泉の建物の中にあるのは、「竹瓦温泉」だけなのではないでしょうか。
 この写真は大正10年に発行された「別府温泉及び入浴上の注意」という本の中で紹介されたものです。


大正時代の入浴風景  
.同じ本からもう一枚写真をご紹介します。
 大正時代の竹瓦温泉の入浴風景です。
 さすがに、大正時代になると、混浴ではなくなったようです。

*「別府温泉及び入浴上の注意」と言う本は、別府に住んでいた、岡島坦氏が、温泉療法の観点から、温泉の成分・入浴法を書いた本です。
大正10年に温泉療法を真面目に考えていた人がいたのは、さすが!という感じです。


昭和20年代  
.昭和13年、「竹瓦温泉」は現在の立派な御殿作りの建物に建て替えられました。設計は当時別府市役所営繕課に勤めていた、池田三比古さんです。
 美しい建築を見て、温泉と気がつかずに、神社と思って拝む人もいたそうです。
 内部は、室内砂湯と男湯・女湯があり、二階は畳の休憩室になっていました。
 温泉の横には、お薬師様があり、来る時は松葉杖をついてきた人が、帰りは松葉杖がいらなくなったと、お薬師様に奉納して帰ったため、お薬師様の前には松葉杖が山のように置いてありました。


昭和50年代  
.竹瓦温泉の玄関前にある立派な石灯篭は、山口県厚狭郡で清酒醸造をしていた岸田昌介さんが昭和八年に竹瓦温泉に病気療養のため湯治に来て、全快したことを喜び、御礼にと奉納したものだそうです。
 当時は、お薬師様の隣にあったのですが、竹瓦温泉の建て替えで、石灯篭とお薬師様が離れてしまいました。


桜の竹瓦温泉  
.春の桜の頃の竹瓦温泉です。
 美しい建物は、多くの人々に愛されてきました。
しかし、近年、建物の傷みがひどくなり、修復工事が必要となってきました。
 明治・大正・昭和・平成と4つの時代を通して人々に愛され、御殿作りの豪華な温泉と人の目を驚かせた建物も、還暦を過ぎて、そろそろお色直しをする時期なのかもしれません。
 現在有志が、竹瓦温泉保存運動をしています。

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